6月は君の雨 1

初夏のアラスカは、世界でもっとも過ごしやすい季節だと思う。
年中寒いと思われがちな極北のアラスカだが、5月から9月の夏季に掛けては暑すぎず寒すぎず非常に過ごしやすい気候となる。内陸部など日中に30度を越える所もあるくらいで、本当にここが極寒の北国なのかと目を疑うような光景が広大な台地に広がっている。
空はカラッと高く晴れ上がり、涼しい風は優しく肌を撫でて行く。夜でも薄着一枚で過ごせるほどの、まさにリゾート並みの快適さを楽しめるのがアラスカの初夏のシーズンだ。

なので、こうした連日の雨というのはとても珍しい現象だった。未沙は手にしていた本を閉じ、小さくため息をついて窓の外を眺めやる。シティの街並みはここ数日降り続く冷たい雨に烟り、窓ガラスにはひっきりなしに水滴が付いては流れ、付いては流れを繰り返していた。暗くて冷たいこの光景を、未沙は翠緑色をした切れ長の瞳でじっと眺めている。

繁華街にある落ち着いた雰囲気のカフェ、と言えば聞こえは良いが、実際は時代に取り残されたかのような古びた喫茶店だ。閑散とした薄暗い店内で、未沙は静かに雨音を聞いている。未沙の他に客はなく、年老いた店主がサイフォン式のコーヒーを淹れる僅かな物音と、建物の古臭い木の香りだけが彼女の周りを包んでいた。

まるでアンティークのような古木のテーブルに、重くて大きなローズウッドの椅子。薄暗い店内で唯一外から明かりが差し込む大窓の下で、未沙はすっかり冷めてしまった紅茶のカップに口を付ける。
湯気の立たない紅茶には香りがないと言うが、老いた店主の淹れてくれたローズヒップ・ティーは冷めてしまっても香り高い。色味も濃い目のブラッドレッドで、口に含むと鼻の奥まで酸味のある上品な香りが抜けて行った。

店内のわずかな照明を照り返す、艶やかなライトブラウンの髪。雨雲の隙間を縫って地上に降り注ぐ頼りない太陽光を受け、まるで今日の空のごとく雨に濡れたような光沢を湛えている。
物憂げな指先は閉じられた小さな茶色い本の上にそっと置かれ、翠緑の瞳は長いまつ毛と共にゆっくりと閉じられた。

何も起こらない。何も始まらない。ここは忙しなく人々が行き交うシティにおいて、唯一時間に取り残された「時のない喫茶店」なのだ。壁一つ隔てて、外と中では時間の流れそのものが違っている。
未沙はそんな子供じみた空想を頭に思い浮かべて静かに微笑した。たまに、本当にたまにだけ訪れるこの古びたカフェでの隔世された時間が、最近の未沙の密かな楽しみとなっている。
職場での喧騒を忘れ、何者にも知られないこの空間でゆったりとした意味のない時間を過ごす。たまに持ってきた本を開き、たまに淹れてもらったお茶を味わい、たまに目を閉じて無作為に空想を楽しむ。
こんな贅沢なひと時は久しぶりだ。マクロスが地上に降り立って約2年、毎日が激動の渦中にあり、未沙は寝食を忘れて任務に打ち込む日々を過ごしていた。
そうすると、どうしても無性にこの名も知らないカフェを訪れたくなる。入り口に看板もなく、自分以外に客がいたのを見たことがない。だが、この「置いてけぼり」にされた独特な感覚が、まるで乾いた砂に水滴が沁み込むかのように未沙の心には馴染んでいく。

ただ、いるだけ。
それだけでいい。それが自然に許されているこの場の空気が、今の未沙にはとても心地良かった。

瞳を開き、厚手のクロスが敷かれたテーブルを見下ろす。ティーカップの横にちょこんと置かれた小さな本が目に映った。茶色いハードカバーの本の表紙にはロシア語で「Вишнёвый сад(桜の園)と書かれている。

「チェーホフが好きかね」

お茶のお代わりを持ってきた店主が何気なく尋ねる。白い髭、白い眉。白髪頭にクラシックなニット帽を被った老人は、皺くちゃで大きな鷲鼻を揺らして未沙に問い掛けた。未沙は珍しい物でも見るような目で老人を見やる。

「いえ、特に好きという訳では…」

老いた店主にまともに話し掛けられたのはこれが初めてだ。戸惑いながらも未沙は視線をテーブルに落とし、茶色いカバーの本に手を乗せた。

「貰い物なんです、この本。元の持ち主が、詩が好きな人で…」

100年前にロシアで書かれた戯曲の内容を、未沙はすでに出だしから巻末まで、丸々諳んじる事が出来るくらい何度も何度も深く読み返していた。
それこそ、目を閉じれば本の中の農園が目の前に現われ出でて、土煙りの香りさえするかのようだ。


チェーホフの物語に出てくる人々は、みんな普通の人ばかりさ
叙事詩のようなヒーローやヒロインもいない
彼らは、目の前の不幸から目を背けてその日を生きるのに必死な人々ばかり
でも、そんな人生の辛さ、苦しさに悶える人たちの愛くるしさが、この本の中には溢れているんだ


本をくれた青年の言葉を思い出し、未沙は微笑む。女の私から見ても、とても逞しいとか男らしいという言葉とは無縁の人だった。
ただ、鮮烈な感性と豊かな知性を感じさせてくれる人だった。少女時代の未沙は、そんな大人びた彼の事が好きだった。

「人が人らしくある様を、時に滑稽に、時に残酷に描いておる。良い本じゃよ」

老人はそう言うと、お代わりのお茶を未沙の前へ差し出した。未沙は微笑みながらお礼を言い、新しいティーカップをその細い手に取る。
湯気の香りからすると、どうやら今度はカモミールティーらしい。カップとソーサーがカチャリと音を立て、雨の日の薄暗いカフェに小気味好い雰囲気を演出する。

「その本をくれたのは、恋人かね?」

未沙の口元へ運ばれたティーカップがピタリと止まる。その反応を見ただけで、老人はすぐに「いや、不躾じゃった。忘れてくれ」と言い直した。
しかし未沙は微笑んで老人の問いに答える。

「いえ、恋人ではありませんでした。…そう、そんな関係を意識する時間も、私達には無かった」

未沙はそう言うと、緩やかにティーカップに口を付けた。暖かな琥珀色の液体が口腔内に滑り込めば、ほんのりとニッキのような甘みが舌に広がる。

あ、ハチミツを入れてくれたのね

飽きの来ないように一手間加えてくれたのだろう。未沙は喉の粘膜で香草の味わいを確認しながら、一口分のハーブティーを穏やかに飲み下す。

「戦争で、大勢の人が死んだ。みんなどこかしらに悲しみを抱えて生きとる。今の世の中は、その本の中身よりもよほど人々が不幸せになっとる気がするのう」

老人はそう言って、空いたティーカップを持ち上げてトレイに戻した。
この老店主にも家族や友人が居たのだろうか?もしかしたらあの戦争でみんな死に絶える中、一人生き残ってしまったのかも知れない。未沙は勝手な妄想でもって老人に同情の念を抱いた。

「あんたはどうだね。不幸か、それとも幸せかい?」

立ち去り際に老人が発したある意味失礼な問いにも、未沙は何故か不快になれなかった。
未沙はゆっくりとカップをソーサーに戻すと、少しだけ思案顔になって窓の外へ視線を移す。

「幸か、不幸か…」

そんな事、考えた事もなかった。未沙はただ毎日、目の前の出来事に全力でぶつかって来ただけだ。
多少不器用なところもあって、決して順風満帆だったとは言えないけれど。それでも、大きな戦争も乗り越え、今日まで生き残ってこれた。今は多くの仲間と、守るべき人々と、新たな挑戦に向けた目標とがある。

「生き残りか。それとも取り残されただけか…」




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チョコと僕らの水曜日 7

夜中に目を覚まして、輝はあくびをしながら階下へと降りて来た。
あのチョコレートの事をずっと考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。時計を見たらもう23時過ぎになっている。

「あ〜…腹減ったな」

よく考えたら夕飯も食べていない。くせっ毛頭をポリポリと掻きながら一階に降りてみると、厨房の明かりがまだ点いていた。

おじさんが何かしてるのかな?

見ると、厨房にいるのはミンメイだった。輝は何気なしに「何してるの?」と声を掛けたが、突然のことでミンメイはビックリしたらしい。手にしたお皿を思わず取り落としそうになる。

「輝⁈起きたの?」
「うん、今さっき」

輝はあくびをしながら厨房に入る。ミンメイはチャーハンをお皿によそって、ラップを掛けているところだった。

「なんだ、今ごろ夕飯?」

輝の質問に、エプロン姿のミンメイはぷーっと頬を膨らませる。

「こんな時間に食べるわけないでしょ。太っちゃうわ」
「じゃあそのチャーハンは何…」

言い掛けて、輝はハッとなる。それってもしかして…俺のために夜食を用意してくれてたのか?

「どこかの誰かさんが、お夕飯の時間になっても降りてこないからおじさん達が心配してたわよ。当の本人はグースカいびきまで掻いてて。呆れちゃうわね」

フンとミンメイは鼻を鳴らす。厨房にはそのミンメイ一人しかいなかった。
恐らくチャーハンはおじさんの作り置きだろうけれど、わざわざこんな時間にいつ起きてくるかも分からない輝のために、この子は食事の用意をしてくれていたのか。

「で、どうなの?お腹空いてるの?」

ミンメイはラップの掛かったチャーハンを電子レンジに入れる。その横のガスコンロに火を付けて、中華スープを温めだした。

「うん、ペコペコだ」

輝は素直に頷いた。「じゃあ座って待ってなさいよ」と言われ、厨房を出て手近な席に腰掛ける。娘々の厨房は客席からも良く見えるので、ミンメイが大鍋のスープを温め直している姿を、輝はじっと静かに眺めていた。
ミンメイはBABYDOLLの金ロゴがビカビカと目立つ黒のジャージ上下を着ていた。両腕両脚に蛍光ピンクのラインが入っている。
その上に濃いグリーンのエプロンを掛けていて、長い藍色の巻き毛をアップスタイルにまとめていた。可愛らしい形をした耳たぶには小さなエメラルドグリーンのピアスを嵌めているのが見える。

ミンメイは、ハッキリ言ってとてもチャーミングな女の子だった。学園でしょっちゅう彼女の名前が話題に上がるのも頷ける。
輝も、初めてミンメイと出逢った時の第一印象は「うわ、むちゃくちゃ可愛い子」という物だった。歩いているだけでこんな子がぶつかって来るだなんて、さすが東京。アジア有数の大都市だけはある。

2年前のあの日、アルタ前でぶつかったあの瞬間から「こんな子が彼女だったらなぁ」と何度繰り返し夢想したか分からない。
しかし、今はこの子の親戚の家で世話になっている身である。まして自由奔放で魅力に溢れたこの子が、つまらない自分なんかを相手にするとも思えない。
いつも「くせっ毛兄貴」とからかわれてはイジられるだけの関係だ。それに、彼女の周りにはいつもイケてる優秀なオスが群がっているし…

「アチッ」

ミンメイが大鍋の蓋に伸ばした手を引っ込める。慌てて耳たぶをつまんで指先を冷やしていた。

「ピアス、校則で禁止だろ」

その耳たぶにキラリと光る、小さなエメラルドグリーンの光跡。輝はすっかり忘れていたが、それは去年の夏祭りに夜店でミンメイに買ってあげた安物のオモチャだった。

「学校じゃしないもん」
「ピアス穴空いてたらバレるだろ」
「空いちゃった物はもうどうしようもないんじゃない?」

確かに、と妙に納得する。ミンメイはお盆にチャーハンの大皿と中華スープの入ったボウルを乗せて厨房から出て来た。

「はい、大食らいさんお待たせしました」
「人を牛か馬みたいに言うなよ」
「だっていつも私の倍も食べるじゃない」
「倍は言い過ぎだろ。知ってるぞ、いつも夕飯とは別に学校から帰ってすぐ…」
「はいはい、あったかいうちにどうぞ!」

ミンメイが輝の口を塞ぐようにレンゲを突き出す。輝は黙って受け取ると、10代の空きっ腹へ豪快にチャーハンを掻き込み出した。
的確に水分を飛ばされ、油で満遍なくコーティングされた米が、パラパラとして口内で跳ねる。鼻を抜けて行く胡麻油の香り。熱変性し過ぎていない卵。絶妙なアクセントのゴロッとしたブロックベーコン。ああ、やはりシャオチンおじさんのチャーハンは絶品だ。輝は夢中になってレンゲを往復させる。その様子を、ミンメイは頬杖をついてじっと眺めていた。

「う、うえっ」
「ほら、慌てるからよ。はいお水」

ミンメイが冷水の入ったコップを差し出す。輝は慌てて受け取ると一息にそれを飲み下した。

「ぷはっ!…ああ、旨い」
「ほんと、牛か馬みたい」

ほっとけよ、と輝は中華スープをズズズとすする。これも、少し濃い目で輝の大好きな味だ。ふわふわの溶き卵が優しく喉を流れて行く。

「おじさんは天才だな。こんなトコで店やってるなんてホント勿体ない」
「こんなトコとは何よ」

ミンメイはぷーっと頬を膨らませる。カチャカチャとお皿を片付けながら「私だって、手伝ったんですからね」と小さく唇を尖らせた。

「え?なんて?」
「何でもない!」

お盆を下げて行くミンメイ。輝は「食った食った」とお腹をさすりながらホールの時計を見る。もうじき日付も変わりそうだ。明日の一限目は何だっただろうか。

「なんか、変な時間に寝たから目が冴えちゃったな」

ポツリと呟く。すると目の前にコトリとマグカップが置かれた。

「これでも飲んで」

カップからは少量の湯気と共に甘く芳しい香りが立ち昇っている。輝が中を覗き込むと、濃茶の液体がホールの照明を照り返して艶めいていた。
迷わず一口含む。

「うん、旨い。ホットチョコか」
「安眠効果があるのよ」

ミンメイはニコリと笑う。その華やかな笑顔を真正面から見てしまい、輝は思わず赤面して顔を逸らした。いかんいかん、勘違いするなよ輝。この子にとってこんなのは子犬を撫でているのと一緒だ。恥ずかしい想いをするのはお前の方だぞ。

そんな輝の様子を、じっと見つめるミンメイ。あのチョコレートは、誰に貰った物なのだろう。もしかして告白されたりしたのだろうか。OKはしたの?すぐ付き合っちゃうの?それともきっぱり断ってくれたのかしら…

何となくお互いにソワソワしながら時は過ぎて行く。言葉に出来ない微妙な想いが、喉から溢れかけては空回りする。
輝とミンメイは黙り込んだまま、妙にモジモジして深夜のホールに2人きりだった。

その時、ホールの時計がボーンボーンと0時を知らせる古臭い音を奏でる。ハッとなる2人。時計を見て、そして顔を見合わせる。

「…日付け、変わっちゃったね」
「そうだね」

それ以上、特に言葉も出てこない。輝は「じゃあ、寝るよ」とカップを片手に席を立った。ミンメイは何か言い掛けてから「…うん」と下を向いた。
厨房にカップを下げに行く途中、輝はある事に気が付いて足を止める。ちょっと照れ臭そうに鼻を掻きながらミンメイの方を振り向いた。

「あ〜…もしかしてコレって、チョコを貰ったって事になんない?」

ミンメイは驚いて顔を上げる。手作りのチョコレートは結局自分の部屋に隠してしまった。まさか昨日の残りが厨房に…⁈

ミンメイの視線の先で、輝は指に引っ掛けたマグカップをプラプラと揺らしている。輝の言わんとする所を察して、ミンメイは顔がパッと紅くなる。

「ば、バッカじゃないの!そんなのノーカンよノーカン!」
「でもチョコはチョコだろ?カカオと砂糖と…」
「も、もう15日よ、木曜日!時効よ時効!!」
「1分前まで水曜日でした〜」
「…!!!」

ミンメイが真っ赤な顔でテーブルの上のお手拭きをパッと投げつける。輝はヒラリとかわして「ご馳走さ〜ん」と厨房に逃げ込んだ。
こちらも密かに紅くなっていた。

「待てこの!」
「ご馳走さ〜ん!」

春にはまだ早い2月の深夜0時過ぎ。誰もいない中華料理店で大騒ぎをする少年と少女の2人組。
そんな2人の様子を密かに階段から見守りながら、フェイチュンおばさんは「若いっていいわね〜」と小さく小さくため息を吐くのだった。





チョコと僕らの水曜日 おわり


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チョコと僕らの水曜日 6

「ひ〜か〜る〜」

トントンと軽いノックの音。次いでそっとドアが開かれると、巻き毛の可愛らしい少女がヒョコッと顔を覗かせる。
しかし日が落ちているにも関わらず、部屋の中は電気も点いていなかった。

「ひかる〜…いないの?」

薄暗がりの中、ミンメイはピンクの小箱を後ろ手に隠しながらコソコソと部屋の中へと入り込む。暗がりに目が慣れると、ベッドの上で大の字になって寝ている制服姿のままの輝が見える。
耳を澄ませば、スヤスヤと穏やかな寝息も聞こえて来た。

「なんだ、寝ちゃったんだ」

ミンメイは小さくため息を吐く。ああ、ドキドキして損した。無茶苦茶緊張してドアをノックしたのに、当の本人はこんな時間からすでに呑気に夢の中だ。

「もう、いい気なもんね」

ミンメイは唇を尖らせる。男子なら少しは乙女の気持ちも汲み取って欲しいもんだわ、と心の中で輝の頬っぺたをギューっと抓った。
別に輝が何か悪いことをしている訳でもないし、突然訪ねて来た割に随分と勝手な言い草なのだが、それが年頃の娘というものなのだろうか。

ミンメイは頬を膨らませながら、輝が仰向けに横たわるベッドの端に腰掛けた。ギシリとスプリングの音がして、思わず心臓が止まりそうになる。
静寂の中、些細な音も大きくなって耳を打つ。起こしてはマズい。ミンメイは慎重に坐り直すと、ゆっくりと寝ている部屋の主の顔を確かめようと顔を近づけてみる。

暗がりの中で、窓から差し込む月明かりが彼の寝顔を照らしていた。
特段美男子という訳でもない。カッコいい物語の主人公のようでも、童話の王子様のように秀麗な訳でもない。極々平凡な、実に一般的な日本の男子高校生の顔だ。しかも酷いくせっ毛である。

ミンメイはベッドに頬杖を付き、じっとその「普通の顔」を眺めやる。
いつも見ている顔。毎朝おはようの挨拶をして、毎晩おやすみを言い合う顔。
一つだけ年上の、兄弟でもなければ恋人でもない、ただの同居人の顔…



ミンメイと輝の出会いは、輝が海外での放浪生活をやめて日本の学校へ入学するために帰国したその日の事だった。
何でも、事故で死んだ父親の遺言らしい。飛行機のパイロットだった輝のお父さんは、息子を日本の学校へ通わせたかったのだそうだ。

ちょうどその時、ミンメイは家出をして東京に出て来ていた。フェイチュンおばさんに憧れ、ずっと歌手を目指していたミンメイ。だが両親はバカな話だと相手にせず、娘を進学校に入れようと勝手に話を進めていた。
反発したミンメイは荷物をまとめて横浜の家を飛び出す。そのまま東京のシャオチンおじさんの元へ向かうが、途中で財布と携帯を盗まれて電車にも乗れなくなってしまう。
警察に行けば家に連れ戻されてしまうだろう。新宿のど真ん中で途方に暮れていた彼女に、優しげに声をかけて来たのは一人の優男だった。

その男はホストで、名前をカムジンと名乗った。外国人だろうか?心細かったミンメイは、優しく話し掛けてくれる彼にノコノコとついて行ったが、そのまま仲間のいる店に連れ込まれそうになる。危険を感じて逃げ出すミンメイ。歌舞伎町の大通りを、走る少女と大勢の男たち。
必死の思いでアルタ前の交差点まで逃げ切って、そこで背の高いくせっ毛の少年にぶつかった。

「大丈夫?」

地べたに転がるミンメイ。手を差し伸べられて、「大丈夫じゃない!」と思わず大泣きしてしまった。
全ての感情が爆発して、自分でもビックリする位の大声をあげて泣いてしまった。泣いても泣いても涙が溢れてくる。両親に理解されない不満、愛されていないんじゃないかという不安、初めて社会から受けた仕打ち、犯罪に巻き込まれ掛けた恐怖。色んな気持ちが混ざり合って、自分の感情の迸りを止める事が出来なかった。
大勢の人混みの中、きっと周りから注目を集めていただろう。恥ずかしいくらい変な風に目立っていたと思う。
それでも少年は、泣きじゃくるミンメイとずっと一緒に居てくれた。


ただ、居てくれただけ。
それだけだったけれど、ミンメイはあの時の事をずっと忘れない。


目立ったお陰でか、ホスト達もそれ以上は追って来なかった。ミンメイは少年にお金を借りて、シャオチンおじさんのお店へと無事に辿り着く。

「良かったね。じゃあこれで」

立ち去ろうとする少年にミンメイは連絡先を尋ねるが、少年は数年ぶりに帰国したばかりで今夜寝るところすら決まっていなかった。
しかも天涯孤独の身だと言う。

「ねぇおじさん!三階の部屋ってもう一つ空いているでしょう⁈」

それが、一条輝が娘々に寝泊まりする事になった理由だった。
ミンメイはあの一連の騒動が、運命だったと今でも強く感じている。それほどに少女にとって、強烈で劇的な出来事だった。



ミンメイはベッドに頬杖を付き、じっと自分を助けてくれた少年の顔を眺めやる。
いつも見ている顔。毎朝おはようの挨拶をして、毎晩おやすみを言い合う顔。
一つだけ年上の、兄弟でもなければ恋人でもない、ただの同居人の顔…


そう、恋人ではない。
でも、彼に恋をしていた。


「輝…」

ミンメイは少年の名を呼ぶ。輝はただ静かに寝息を立てているだけだった。そっと手を伸ばし、酷いくせっ毛に触れてみる。太くて、硬くて、ガンコなくせっ毛だった。ミンメイは思わずクスリと笑う。

「さてと」

ミンメイはベッドから立ち上がり、薄暗い部屋の中を見回した。手にしたピンクの小箱をどこへ置こうかと思案する。
昨夜、遅くまでミリアと一緒に手作りしたチョコレートである。大分おばさんに手伝ってもらったけれど、そんな事より大切なのはハートが篭っているかどうかだ。
それだけは、この中にいっぱい詰まっている。

「どうせ義理チョコの一つすら貰えなかったんだろうし。可哀想だから、このミンメイちゃんがとっておきのを恵んであげるとしますか」

ミンメイは輝の寝顔に微笑みかける。少年はただ静かに寝息を立てているだけだった。
そんなどうということの無い様子を見るだけで、ミンメイは胸がいっぱいになる。

「感謝しなさいよ、何せ乙女の手作り…」

言いかけて、言葉が止まる。
チョコの置き場所を探して彷徨っていた視線がとある一箇所で静止した。
それは、机の上に置かれた小箱。ほんのり上品な赤い包み紙に、シックな緑のリボンが掛かっている。
月明かりに淡く照らし出され、まるで夢の中の光景であるかの様に妙に神々しく輝いて見えた。

普段ならどうという事はないただの小箱。
しかし今日は2月14日、聖バレンタイン・デイだ。
それは、明らかにそれだった。


ミンメイの表情が、微笑みかけのまま固まる。大粒のつぶらな瞳が大きく見開かれ、厚いまつ毛が細かく震えた。
この部屋に入って来た時とはまた違う理由で、心臓がバクバクと音を立てる。


考えた事も無かった。彼が、他の誰かにチョコを貰うだなんて。
…一体誰が?

「輝は、誰かから貰える予定あるの?」

「そ、そんなの興味ないんだよ」

昼間学校で会った時は、そんな気配はまったくなかった。今年も確実にフェイチュンおばさんからの憐れみチョコ1個だろうと高を括っていた。相変わらずパッとしない彼。だからこそ、安心して見ていられた。気持ちを伝えるのを焦らなかった。

輝の顔を見る。大きな子供のように安らかな寝顔だった。邪気のない、純朴そうな少年の顔。
この顔が、他の誰かに向けられているかも知れないという感覚は、ミンメイの背筋をゾッとさせた。


輝が、私ではない誰かを好きになって、私の知らない人と付き合ったりしたら…


その想像は恐怖だった。胃に重たい物を感じて、ミンメイはゆっくりと部屋を出ると、静かにパタンと扉を閉めた。

後には、少年の健康そうな寝息だけが残った。




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チョコと僕らの水曜日 5

「ただいま〜」

シャオチンおじさんが営む中華料理店「娘々」。身寄りのない輝はいま、好意でこの店の三階に住まわせて貰っている。

「あら輝ちゃん、お帰りなさい」

忙しそうにしながらも、笑顔で迎えてくれるフェイチュンおばさん。何やら訳知り気に「もう貰ったの?」と妙にニヤニヤしながら聞いて来る。

「え?な、何が?」

輝は見透かされたようにドキリとして赤くなる。ポケットの中の赤い小箱を思わずギュッと握りしめた。

「ふふ、いいのよ。青春よね」

フェイチュンおばさんはそう言って笑顔で給仕に戻って行った。何故俺がチョコを貰った事を知っているんだろうと輝は不思議に思ったが、取り敢えずそそくさと奥の階段を昇って三階の部屋に逃げ込んだ。

バタンとドアを閉じると、床にカバンを放り捨ててベッドへ身を投げ出す。
夕暮れの薄暗い天井を見上げながら、ゴソゴソとポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは赤い小箱。緑のリボンが掛かっていて、あの人の翠緑の瞳を思い出す。

「みんなには内緒よ」

そう言ってウィンクする“教師もどき”。

「目を閉じて、想像してみて」

自分の顔に触れた彼女の指先が、手のひらの感触が、今でもハッキリと思い出せる。

「だから、勉強頑張ろう?」

まつ毛が長かった。歯が白かった。髪の毛が、夕陽を浴びてキラキラと輝いていた。

笑うと、綺麗に整った顔が可愛らしく見えた。初めて歳上の…大人の女性を「かわいい」と思った。

輝は制服のまま仰向けにベッドに寝そべり、じっと手にした赤い小箱を見上げている。
なんで俺にコレを?どういう意味で?いや、バレンタインにチョコなんてそういう意味じゃないのか?でも相手は大学生だし、こういうの慣れてるかも知れないし、実際大した意味なんてないのかも…

グルグルと頭の中を色んな考えが巡って行く。気持ちはどんどん塞ぎ込んで、堂々巡りの思考が気分をますます落ち込ませてしまう。

ほんのついさっきまで有頂天でいた17歳の男子高校生は、奇妙な喪失感を味わっていた。
好きですとか、付き合いましょうとか言われた訳じゃない。ただチョコレートを貰っただけだ。

これって、どういう意味のチョコなんだ?

部屋の電気も点けず、輝はただ無言でじっと手の中の赤い小箱を見つめていた。



「ただいま〜!」

同級生たちとワイワイキャッキャしながら帰宅したミンメイが、元気良く中華料理店「娘々」の自動ドアをくぐる。
異性同性問わずに人気のミンメイはいつも誰かしらと一緒だ。変に気を使わない性格なので、親しみやすくて友達も多い。
そんな自慢の姪っ子が可愛くて仕方のないフェイチュンおばさんは満面の笑みで帰りを迎える。

「おばさん、お腹空いた〜!ラーメン食べたい!」
「あらやだ、年頃の娘が帰って来て第一声がそれなの⁈」
「だってお腹ペコペコなんだもの!」

ミンメイは厨房に駆け込み、調理中のシャオチンおじさんに声を掛ける。

「おじさん、ラーメン一丁!大至急でね!」

チャーミングにウィンクするミンメイ。その花のように明るい笑顔に、シャオチンおじさんは目尻を下げて「すぐ作るから、座って待ってるナ」と甘々に応える。ミンメイは「やった〜!」と大喜びで厨房を飛び出す。

「ちゃんと手を洗ってからよ!」
「は〜い!」
「まったく、もう」

鼻で息を吐きながらも、姪っ子の明るさに微笑みの絶えないフェイチュンおばさん。これが「娘々」のいつもの日常だった。


「ねぇ、聞いておばさん。私またスカウトされちゃった!」

シャオチンおじさんの作ったラーメンをものの数分で平らげたミンメイが、器を片付けながら楽しそうに言う。

「あら、今度はなに?」
「モデル事務所だって!読モらしいんだけど、私ってモデルってガラじゃないじゃない?だから断っちゃった!」

あっけらかんと言うミンメイ。両袖をめくり、エプロンを付け、シンクに溜まった洗い物とスポンジ片手に格闘し出す。

「あなた目立つものねぇ」

自分のことの様に、目を細めて喜ぶフェイチュンおばさん。

「でもいいの?毎回断ってばかりだけれど、芸能界には行きたいんでしょう?」

ミンメイは鼻の頭に泡を付けながらおばさんを振り向いた。

「いいの!だって、私の夢はおばさんみたいな歌手だもの」

そう言われて益々嬉しそうに目を細めるフェイチュンおばさん。中国人のおばさんは昔歌手をしていて、後援会の会長だったシャオチンおじさんと結婚して早々と引退した。
あまり記憶に残っていないが、ミンメイも幼い頃にTVで歌うフェイチュンおばさんを見て「私も絶対歌手になる!」とみんなの前で歌マネを披露していたのだそうだ。

「フフ、あなたならきっと私なんかより凄い歌手になるわ」

何か確信めいた物を感じながらフェイチュンおばさんはそう呟く。ミンメイは「え?なぁに⁈」とまた振り向くが、おばさんは「ううん、何でもないわ」と笑顔で返した。

「そう言えば」

両手のひらを胸の前でパンと叩いて、フェイチュンおばさんはニヤニヤと笑い出す。

「輝ちゃんに渡したのね、あのチョコ」

前日の夜、この厨房で手作りチョコを作るのをおばさんは手伝わされていた。
ミンメイだけでなく、ミリアとかいう外国人のお友だちも一緒になって悪戦苦闘していた様を思い出して頬が緩む。
しかしミンメイは頬を赤く染めて俯き「…ううん、まだ…」と小さく零した。意外な返事におばさんは「え⁈」と大きく目を見開く。

「なんか、改めてだと…恥ずかしくて…」

もじもじと泡まみれのお皿を弄っているミンメイ。そんなエプロン姿のミンメイを微笑ましく眺めながらも、おばさんは先ほど輝ちゃんが帰って来た時の反応を思い出して眉根を寄せる。

「…あの子にチョコをあげるような変わり者が、この子以外にいるとは思えないけれど…」

「え?なぁにおばさん」

何でもないわ、とフェイチュンおばさんは笑顔で返事をすると、新しくお店へ入って来たお客さんを出迎えに「いらっしゃいませ〜」と厨房から出て行った。


「まあ、どちらにしたってそれが青春よねぇ」




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チョコと僕らの水曜日 4

輝は放課後の校舎でマックスを探し出すと、女生徒から預けられたチョコレートを手渡した。
当然のように隣りにいたミリアには無茶苦茶睨まれたが、マックスは「ありがとうございますと伝えてください」と堂々と受け取ってくれた。高校生のくせにティアドロップ型のサングラスなんかをしているキザ野郎だが、こいつのこういう所は俺でも惚れる。

「先輩もミンメイちゃんから貰いました?」

マックスの一言に、輝は怪訝な顔をした。

「は?ミンメイがくれる訳ないだろ」
「あれ?おかしいな」

マックスははてと顎に手をあてる。そのマックスの脇腹をミリアが肘で突付いた。

「なんだ?どうした?」
「あ、いえ、何でもないです」

マックスはニコリと笑う。その横で、いつもの様に無表情なミリアが「そうすると一条先輩はチョコレートなしか」と呟いた。輝は思わずムッとなる。

「おいおい、誰がチョコなしだって…」

言いかけた輝の肩をポンと肩を叩く者がいた。振り向くとそこには、巨体の男子が涙を流しながら立っている。

「ですよね!一条先輩!お、俺も、俺もゼロなんですぅぅ〜」
「か、柿崎?!」

厳つい四角顔に眉なしの三白眼。見た目だけなら立派なヤンキーの柿崎速雄は、マックスと同じ1年生の後輩だ。何故か最近輝はコイツに妙に慕われていて、それが微妙に気に掛かっている所だった。

もしかしてだが、俺はコイツに同類と思われているのだろうか?こいつは今、「ですよね」と言いやがった。つまり、コイツは俺のことをチョコなしの0個、“0の人間”だと思っているという訳だ。

はっきり言って心外である。俺だって決してイケメンという訳ではないが、お前クラスまで落ちぶれたくはない。
輝はそう思いながら冷たく柿崎を突き放した。

「柿崎、お前と一緒にすんな」
「ええ〜!先輩そりゃ酷いっスよ!」
「俺とお前、どちらかとキスしなくちゃならないような状況になったとしたら、きっと女子は『あなたの方がマシよ!』とか言って俺とキスをするに違いない」
「?何すかそれ??」
「いや、何でもない」

俺は咳払いをしながら、ポケットに隠していた赤い箱を取り出す。緑のリボンが掛かったその小箱を見て、その場の3人は目を丸くした。

「え、先輩がチョコ…⁈」
「どうだマックス、恐れ入ったか」
「それはどこで買ったのだ」
「…ミリア、お前顔しか良い所無いよな」
「そんな!先輩!!」
「そういう訳だ柿崎。悪いな」

輝は得意満面になると、「じゃあな」と肩で風を切って廊下を歩き出した。その後ろ姿をマックス、ミリア、ハンカチを噛む柿崎の3人が呆然と見送る。

「マックス、あれはミンメイのあげた物では無いのか」

ミリアがマックスに耳打ちする。東ヨーロッパ・スラヴ系のミリア・ファリーナは細身の超美人だ。まるでスーパーモデルのようなスタイルをしていて、日本の学生服を着ているとまるでコスプレをしているようにさえ見えた。
そのミリアの言葉に、マックスは不安そうに頷く。

「うん、多分違うと思うよ。…さて、どうしたものか」

思案顔のマックスなどに気付かず、人生で初めて貰った「バレンタインのチョコレート」に浮かれた輝は、鼻歌を唄いながら家路を急ぐのだった。




テーマ : 懐かしいアニメ作品
ジャンル : アニメ・コミック

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iPhoneで書いているので「輝」と打てません

FC2の機能がよく分からないので、何か変だったら教えてください(´・ω・`)

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