チョコと僕らの水曜日 3

「悪いわね、待たせてしまって」

そう言って、早瀬未沙は輝に向き直った。彼女が静かにテストの採点に没頭する姿をボーッと眺めていた輝は、急に振り向かれて慌てて視線をそらす。

「お、おう」

妙に偉そうに返事をする輝。それを余裕のある笑みで受け止める未沙の顔を見て、輝はなんだか自分が恥ずかしくなるような想いだった。
我ながら子供っぽい態度だと思う。しかし、歳上の女性にどういう態度で接していいのかまるで分からない。

目の前にいる女性は、とても大人びた表情をしていた。落ち着いて、柔らかな雰囲気。たった2つ歳が違うだけでこんなにも自分とは違うものなのだろうか。
シンプルなライトベージュのスーツに、襟の広いホワイトシャツを着ている。細い首元がチラリと見える開襟タイプだ。タイトスカートに包まれた脚を、膝を揃えて斜めに置いている。とても綺麗な脚だった。

「呼び出された理由、分かる?」

未沙は幾分笑みを含んだような微妙な表情で輝に問いかける。輝は「さてね」とそっぽを向いたが、心当たりは有り有りだった。

「これの説明を聞きたかったの」

未沙が卓上の紙片を一枚手に取る。今日の午前中に行われた英語の小テストだ。

「英語の得意なあなたが、こんな解答を寄越すだなんて不思議だと思わない?」

未沙はテスト用紙を指し示す。テストの解答欄は全て未記入、白紙解答だった。
輝はとぼけて返事もしない。未沙は困り顔でため息を吐く。

「私はただの教育実習生で、長年あなた達を指導なさってこられた先生方には遠く及ばないわ。でも、だからと言ってこれは貴方のためにならないんじゃない?」

真剣な眼差しで問い掛ける未沙。本気で気に掛けてくれているようだった。
しかし輝は素直になれない。「別に、分かんなかっただけですよ」と顔をそらすだけだ。

海外生活が長かった輝にとって、高校の英語テストなど簡単なものだ。他の教科はほとんど赤点だったが、英語だけは成績が良かった。
しかし、今回は何も記入しなかった。理由は目の前にいる人だ。

「大体大袈裟でしょ?英語のテストなんて何の役にも立たないもんだし」
「そんな事はないわ」

鼻で小さく息を吐きながら、未沙は腕組みをした。袖から覗く尺骨が、何故か輝の胸をドキリと鳴らした。

「小さな日々の積み重ねが大切よ。こうした定期考査がある事で、自分の現状が把握できて進路修正が出来るの。得意な分野ほどそうした事が大事なのよ」
「でも俺、英語話せるし」
「正しい文法を学ぶのも重要なことだわ」
「いらないよ」

輝はあっさりと切って捨てる。この辺は、それなりに海外生活を送ってきた自分の経験が強気の原因となっていた。

「大体さ、学校の勉強って何なんだ?英語だけじゃない、微分積分やイオン結合の知識なんて将来本当に必要なのか?オタク、俺より歳食ってるけれど実生活で使ったことある?」

輝は未沙の鼻先に指を突きつけてそう問うた。今まで、この質問をされて明確な答えをくれた教師はいなかった。どいつもこいつも「それは屁理屈だ」とか「世の中がそう決まっているから」などと適当な返事で誤魔化そうとする。義務教育なら中学生までで終わっている筈だ。今、自分が日本の高校生として退屈な毎日を過ごすことに一体何の意味があるというのだろう?
それは、輝が常々疑問に思っていたことだった。しかし答えはどこにも転がっていない。
親父が事故死する直前に「輝、お前は日本へ帰って学校へ通え」と言い残していなかったら、今すぐこんな所はやめて海外でレース・パイロットになるために働きたかった。
輝には夢があったのだ。それは父親の跡を継いで、パイロットになる事だった。

輝の問いかけに、未沙は一瞬鼻白んだように見えた。しかしすぐに笑顔に戻り、輝の質問を反芻するかのように何度も頷く。そして、静かに口を開いた。

「一条君は、他の同級生たちよりほんの少し大人なのね」

ほっとけよ、と輝は思った。そりゃあ、両親を亡くし、天涯孤独の身になりゃあ誰だって大人ぶった生き方になるさ。だからこそ自分なりに今の境遇を納得させてくれる返事が欲しいといつも願うのだが、所詮誰もそんな都合の良い答えを持ち合わせてなどいないのだ。ましてこんな、女子大生に毛が生えた程度の”教師もどき”に俺の気持ちが分かってたまるか…そう思った輝だったが、未沙は冷静に輝の疑問について語り始めた。

「勉強は嫌い?」
「別に。必要性を感じないだけさ」
「じゃあ、あなたの言う”役に立たない”微分積分を誰がどういう理由で編み出したか知ってる?」
「は?そんなの知る訳ないだろ」
「そうよね」

未沙はクスリと笑う。

「積分法の原点はね、紀元前1,800年にまで遡るの。エジプトのピラミッド建設にだって使われていたのよ。信じられる?現代の高校生が四苦八苦している学問を、4,000年前の人たちはもう実生活の中で活用していたの」

えっと輝は顔を上げる。意外な話の内容に戸惑い気味の少年を、”教師もどき”は楽しんでいるかのようだった。

「西暦1,200年頃にはインドで微分法が生み出されたわ。今から800年前の事よ。800年前ってどんな時代か分かる?日本はようやく武家社会が生まれた程度の時代だわ。まだ源頼朝が幕府を開いたとか、そんな頃の話よ」

へーと会話の流れを忘れて輝は感心する。未沙はそんな輝の素直な反応が嬉しかったらしい。そっと手を伸ばすと、輝の両目をその細く白い両手で覆った。突然のことに驚いた輝だが、特に抵抗したりはしなかった。

「目を閉じて、想像してみて。この微分積分ひとつがあなたの持つ教科書に載るまで、一体どれだけの壮大なドラマがあったのかを。人類の歴史4,000年分がギュッと凝縮されたこの小さな計算式が生み出されるまでに、一体どんな人たちが努力し、研鑽し、想いを積み重ねていったのかを」

正直に言うと、輝としてはそんな事を想像するどころの話ではなかった。
自分の顔に触れる未沙の手のひらの感触に、17歳の少年の心臓は今にも爆発寸前の状態だったのである。
とてもすべすべしていて、ほんのりと温かい。そして少し良い匂いがする。
目を塞がれて視覚以外が鋭敏になっている輝にとって、歳上の女性のその感触はあまりにも刺激が強すぎた。

輝が密かに鼻息を荒らしくていると、ふいに視界が明るくなる。瞼を開くと、両手をどかした未沙の顔がすぐ目の前にあった。輝は心臓が口から飛び出すかと思った。

「人類の叡智というのは、とても長い年月をかけてようやく生み出されたものなのよ。それをたった十数年の学生生活で学べるなんて凄いことだと思わない?私はこれに気づいた時、感動して夜も眠れなかったわ」

未沙は笑った。前歯が白くて綺麗だ。
特徴的な翠緑色の瞳が輝を捉える。とても深くて、濃い光を湛えた双眸だった。

「だからね、一条君」

名前を呼ばれて我に返る。輝は真赤になった顔を背けた。

「勉強というのは、あなたが21世紀の現代人になるための儀式なのよ。これを経過して、初めてあなたは”現代人”になれるの。昔の人たちが多大な努力の末に作り上げてくれた『人類の英知』の後継者として、あなたはついに認められるのよ」

その話を聞いて、輝は不思議な高揚感に包まれる。もしかしたら話の内容よりも、この人の口から語られたからなのかも知れないが、今までこんなに真剣に自分の疑問に応えてくれた人は他にいなかった。

「だから、勉強頑張ろう?」

未沙がポンと輝の肩を叩く。輝は必死に自分を取り繕って「お、おう」とぶっきらぼうに答えた。
密かに心中で輝は反省する。今度から、この人の授業は真面目に聞こう。英語も、ちゃんと文法から学び直そう。

「分かってくれたなら大丈夫。次のテストは期待してるわ」

未沙はそう言って、輝のクシャクシャの癖っ毛頭を撫でた。輝はもう限界で、このままだと卒倒してその場にぶっ倒れるか、目の前の歳上の女性を興奮のまま抱きしめてしまいそうだった。

「わ、分かったよ」

そう言って、輝は逃げるように立ち上がる。床に置いていたペラッペラの学生カバンを乱暴に掴むと、足早に準備室のドアへと向かった。その後ろから未沙が「あ、一条君忘れ物よ」と声をかける。
振り向くと、未沙は右手に小さな箱を持っていた。グリーンのリボンが掛かった、平べったい手のひらサイズの赤い箱。

「みんなには内緒よ」

そう言って、未沙はウィンクした。輝は耳まで真っ赤になりながら、未沙の手からその箱を粗雑に奪い取る。
そのまま駆け出すように扉から出ていく。そんな男子高校生の後ろ姿をクスクスと眺めていた未沙が「さて、仕事を終わらせなきゃ」と机に向き直ったところで、輝が準備室に戻ってきた。

「なあに、どうしたの?」

未沙が優しく聞くと、輝は少し口ごもった後に「その…テスト、悪かったよ」とそっぽを向いたまま呟いた。そして再び後ろも見ずに駆け出す。
一陣の風のように走り去る輝。そんな少年の言動が可愛らしく感じられて、未沙はしばらく顔から笑みが取れなかった。




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撃ち抜かれたなぁ

年上女性の未沙先生。屁理屈を解いているのか絆しているのかどうなんだか。輝君、撃ち抜かれましたねぇ~。(n*´ω`*n)
罪造りな教育実習生の未沙先生。

もう~春の陽気のオレンジピンクのオーラに包まれつつあるのぼせた輝くんにミンメイちゃんは……どうでますか?(-ω-)ウーン

10代のバレンタイン話ってワクワクしちゃいますね。にこっと口元に笑みを作って「悩みもがけよう!」とちょっと腹黒に煽ってしまいたくなる。( ̄▽ ̄)

Re: 撃ち抜かれたなぁ

この年代の男子は悩みの塊ですからね〜( ̄▽ ̄)

悩み苦しむのが青春…そして勘違いして舞い上がるのも青春!その末に振られて涙にくれるのも青春ですな^ - ^

さてさて、輝ちゃんとミンメイはどんな青春を邁進するのでしょうか…オホホ( ̄∀ ̄)


> 年上女性の未沙先生。屁理屈を解いているのか絆しているのかどうなんだか。輝君、撃ち抜かれましたねぇ~。(n*´ω`*n)
> 罪造りな教育実習生の未沙先生。
>
> もう~春の陽気のオレンジピンクのオーラに包まれつつあるのぼせた輝くんにミンメイちゃんは……どうでますか?(-ω-)ウーン
>
> 10代のバレンタイン話ってワクワクしちゃいますね。にこっと口元に笑みを作って「悩みもがけよう!」とちょっと腹黒に煽ってしまいたくなる。( ̄▽ ̄)
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iPhoneで書いているので「輝」と打てません

FC2の機能がよく分からないので、何か変だったら教えてください(´・ω・`)

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